県民性について
人間の性格は、多くの原因によって構成され、形成されています。
そのいずれも、あくまでも「〜だろう」や、「〜という傾向がある」
という推測や統計学的な領域を出ないものです。
しかし、県民性は、人となりを推測するには、
十分役立つものではないでしょうか。
現代では、人の往来やメディアの普及で、
全国的に平準化されてきてます。
料理も言葉も県民性というものが薄れてきています。
しかし、一方で、県民性の統計も
やっと体系的にまとまってきたのではないでしょうか。
個人的なものか風土や歴史が形成した人格なのか
判断つかない面は多いですが、県民性は見え隠れします。
初対面、話題がない時、意中の人と、仕事を一緒にする人と、
「血液型は?」「星座は?」「どうぶつ占いは」「兄弟構成は?」に加え、
「出身県は?」という質問もありえるのでは?
戦後、メディアが発達し、交通の行き来がし易くなった現在、
言葉も人柄も、県民性も平準化しつつあるように思えます。
私がいる九州でも、ツッコミで関西弁を出してみたり、
あちこち出張の多い私は、いろんな方言が出たり、
標準語に近い中途半端な話し方をすることもあります。
方言については、
子供言葉や大人言葉、男と女の言い回しの違いなど、
あまり厳密に使い分けたりしなくなりました。
しかし、
「あの人は表面は無愛想だが、
実は穏やかな○○県人だ」
「彼女は人当たりはいいが、
○○県の人だからお金には細かそうだ」
「カレは理屈屋で頑固かと思ったら、
○○県の生まれだからだよ」
「ウチの社長は○○県の出身だから、
おだてに弱いぞ!」
などという県民性というものが、
まだあきらかに存在するのです。
都道府県による人柄や県民性というのは、
大きくはあるようです。
それを知って上手に活かせば、
人間関係における潤滑油的な役割を果たします。
ここで述べている出身県についての傾向や地域性については、
「そのとおり!」
「言われてみれば、そんな気もするなー」
というものから、
「え〜、それは違うんじゃないのー?」
というものまであると思います。
戦後、日本列島は、文化も言葉もTVなどのメディアや、
人々の往来で、平準化してきたとはいえ、
まだまだ地域性は充分色濃く残ってます。
県を廃止し、もっと大きなくくりの道州制にしよう!
という試案もあります。
そうなると、東京一極集中は緩和され、
行政の効率はよくなるかもしれないです。
しかし、大事な県民意識が薄くなってしまいます。
効率性の追求だけでは、反動でひずみも出てきます。
お互いの育った環境や歴史を知って尊重し合う方が、
人間関係も政治もうまくいきそうな気がします。
また、かつて、“廃藩置県”ならぬ“廃県置藩”
を唱えた元知事さんがいました。
こちらは、上記でいう同じ県の廃止でも、
逆にもっと小さなくくりであった昔の藩がいいと。
いずれにしても、
行政単位や効率の域を出ていない話のようです。
どういうくくりであれ、海や山、寒い暑いという自然環境や、
都の近くか農村か、外部との交流が盛んだったかなどの
歴史的条件などにより特色が強く出ているものです。
「東男に京女」
「長野賢人はクソ真面目で冗談が通じない」
「大阪人はせっかち」
など一般的に言えるものはあります。
普段は、「オレは違う」、「私はそんなことない」、
と思っていても、他県の人と接した時、生まれ故郷を離れた時、
ひょっこり顔を出すものです。